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三宅Style 第5回 堀井 美也子氏(株式会社音丸建設 不動産事業部)インタビュー

更新情報

「仕事もプライベートも、やろうと思えば自分次第で何でもできます。」

海辺

堀井さんは三宅島で生まれて高校まで島で育ったと聞きました。どんなお子さんだったのでしょう?

私は島の東側に位置する三池地区に生まれました。三池浜が広がる海の目の前に実家があり、高校3年生まで暮らしました。毎日波の音を聞いて育ったんです。まさに自然の中で生活をしていた感じですね。姉が2人いて、私は負けず嫌いで甘えん坊の末っ子でした(笑)。

私は昭和53年生まれですが、昭和40年代の離島ブームとまではいかなくても、私が小さい頃は三宅島にもたくさんの観光客が来ていました。実家のあった三池浜も観光客でにぎわっていたんです。パラソルがずらっと並んで浜を埋め尽くしていましたね。

両親はともにテングサ採りをする漁師で、日中いなかったんです。小さい時のエピソードと言えば、観光客と勝手に遊びに行っちゃって、誘拐騒ぎになったことがあります。今でもよく覚えています(苦笑)

私の祖父母が民宿をやっていたので、観光客を身近に感じていました。宿を手伝った父が海のものを採ってきてそのままバーベキューをしてあげたり、、、楽しかったですね。あの時はあんなに観光客がいたんだなあと思います。

 

島の子どもたちも多かったですか?

小中学校は3校ずつありました。3校合わせたら同学年は50名くらいはいたのかなと思います。学校が終わったら秘密基地を作って遊んだり、楽しかったですね。中学まではほぼみんな一緒で、高校で別れる子が各校数名いました。3校の子どもたちが三宅高校でみんな一緒になるんですね。とにかく、子どもたちは高校卒業までずっと一緒です。

あの頃は今よりもっと島全体で武道が盛んで、私も小学校2年生から剣道を習いました。当時はソフトボールもみんなやることになっていて、小学校高学年になると、地域の人がソフトボールを教えてくれて、他の地区との試合も地域の人と一緒に盛り上がっていましたね。

中学生になると部活でバレーボールを始めました。坪田地区の中学校では、男子は野球を、女子はバレーボールをやると決まっていて、今では想像もつきませんが(笑)バレー部でキャプテンも務めました。

3年間はバレーに打ち込み、高校になってまた剣道部に戻りましたよ。二段までは何とか取ることができました。

ソフトボール大会

中学でやるスポーツが決まっているんですね。有無を言わさず。(笑)

はい、そうです(笑)。かなり厳しい特訓のおかげで3校の対抗戦では見事優勝しました!当時の写真は、郷土資料館に貼られているはずです。

 

今でもそうですが、昔から島の方は皆さんスポーツをやりますよね。

昔からです。何もやったことがなくても泳げない人は見たことがない。どんなに苦手と言っても。今では考えられないかもしれませんが、海に子どもたちだけで行ったり、少々危ない経験もしてみたり。

何かがあっても誰か助けてくれる大人がいるんですよね。その安心感があったんだと思います。

高校生の時は遠泳大会があるんです。坪田港から三池まで泳いだ時代もあったそうですが、私の時は3時間泳ぎ続けました。今でも遠泳大会はあります。

 

基礎体力が違いますね。たくましい・・。

スタート時にビニール袋を渡されて、疲れた時には空気を入れて浮き輪代わりにつかまるようにと言われるんです。飴をもらって3時間ひたすら泳ぎ続ける・・。(笑)みんな当たり前のようにやってました。島一周マラソンもありましたね。

振り返ると、なかなかこんな経験をした人もいないかなと。当時は楽しいなんて思わなかったですが(笑)

 

誰もが経験できることではないけれど、島では昔から変わらずみんな経験しているんですよね。

自然の中で、体を動かしながら危ないことも学んでいくんですよね。大人も許してくれたんだと思います。無茶をしても、どこかで見守ってくれていました。家族だけでなく、地域や全体で。

 

島を離れることを決めたのはいつでしたか?

実は、大学に行くつもりがなかったんです。高校3年生の夏前までは、警察官になりたかったので。ただ、いずれにしても島を離れることは自然と決めていた感じです。

 

堀井さんが警察官の制服を着ているイメージがすんなり浮かびます。(笑)

義理のお兄さんが消防士だったこともあり、話をいろいろ聞くうち、警察官を目指すのは大学に行ってからでも遅くないということが分かりました。

そこから大学受験の勉強を始めました。警察官への興味から、刑法などを学びたくて、法学部を選びました。そして希望の大学に合格し、進学が決まりました。

 

三宅高校での受験勉強はいかがでしたか?

専門学校や、大学、短大など進学を目指す人が多かったです。塾はなかったですが、授業後、補習をしてくれるなど手厚い教育を受けました。

 

人数が少ない分、手厚い教育が受けられたということですね。

先生たちが自分の経験をふまえて、いろいろ教えてくれました。希望する学校には、一般受験でもみんな十分合格できていましたね。

いよいよ大学進学で島を出ることになった時はどう思いましたか?

大学のパンフレットを見て、いよいよ出るんだなあとしみじみ思いました。寂しいと言うよりも、みんなずっと一緒なので、これで関係が切れるわけではないし、また新しい出会いがあってもいいかなと思えて、楽しみの方が強かったです。

何かがあれば、約束しなくてもみんなに会えるだろうし。学生生活はみんなそれぞれ楽しんで、むしろ社会人になってから、同窓会やろうということが増えていったかもしれませんね。

 

大学とお住まいは近かったのですか?

埼玉にある大学に入学したのですが、最初は学生会館に入り、その後独り暮らしをしました。

 

独り暮らしはいかがでしたか?

楽しかったですよ。(笑)アルバイトしたり、テニスサークルに入ったり、みんなでお酒呑んだり。何でも自分で決めて自分でやれるというのが。

 

そうなると、在学中島にはどのくらい帰ってこられたのでしょうか?

長い休みの中で1週間いたかどうか・・。親は心配していただろうなと思います。(笑)

 

まさに大学生活を謳歌されたんですね!

「ザ・大学生」の毎日でしたね。楽しい思い出しかないです!中身は、ご想像にお任せします(笑)

 

大学時代は、将来的に島に戻ろうと考えていましたか?

全く思ってなかったです。まだ警察官になりたいという夢もあったし、大学でも結構真面目なゼミに入って、裁判所事務官になりたいとも思っていました。

 

就職先はどのように探していったのでしょうか。

結果的に、営業系の、人と関わる仕事が私には合っているのではないかと思って探しました。埼玉県内で一番大きな住宅メーカーでもある不動産会社に受かって就職しました。

 

社会人スタート後も、埼玉にお住まいですか?

会社が埼玉にあり、大学在学中に借りていた部屋が、たまたまこの会社が管理している物件だったんです。本社までも徒歩圏内でした。だから、通勤ラッシュは味わってないです。

営業部に配属され、接客しながら、賃貸物件のご案内や契約をする仕事をしていました。

そこで一緒だったんです。今の主人と。私が新人で主人が上司という。

ご自宅

恋はどのあたりで芽生えたのでしょう?

先輩はやっぱりかっこよかったんでしょうね。(笑)

 

不動産業というと男性が多い職場でしたか?

接客などは女子が多かったですし、あたりがやわらかい・・優しい男性が多かったです。(笑)

 

プライベートはどのように過ごされていたのでしょう?

不動産業は、平日に休みを取るので、結果として同じ会社の方と一緒に遊んだりすることが多かったですね。

 

その後のキャリアはどのようになっていったのでしょうか。

実は、入社2年目の2002年に早々と結婚しちゃったんです(笑)翌年には長男を出産して、7ヶ月の産休後に復帰、2006年に2人目を産んで、4ヶ月で復帰しました。女性の復帰を後押ししてくれる働くママに優しい会社だったんです。また主人の両親と同居していたので、子どもを見てくれることも多かったですね。

 

そしていよいよ三宅島に戻ってこられるわけですが、その経緯を伺えますか?

2010年夏のお盆休みでした。家族で島に来て、当時の坪田公民館の掲示板に「役場職員募集」を見て、いきなり主人が「受かったら島に来るぞ」と言い出したんです。

実は私の母の具合があまり良くなく、埼玉に呼ぼうということも話し合っていたんです。ですが、高齢でもあり、環境を変えるのはよくないのではと主人が気にしてくれていました。何度も通ううちに、主人が三宅を好きになってくれたようで、島に住みたいと言ってくれて。

秋採用の試験だったんですが、8月末に本当に受験し、見事合格。会社にも言ってなかったんですが・・。そこから半年もせず家族全員三宅島に引越しました(笑)

合唱

同居されていたご主人のご両親もいらっしゃったわけですよね?

義母は逝去していて、義父は東京生まれの埼玉育ち。義父を連れて行くのは絶対に無理だろうと思っていました。ところが、主人が義父を説得して、一緒に来ることになったんです。

義父は、島に行くと時代に乗り遅れてしまうのでは、と不安になっていました。というのも、脳出血で身体の自由が効きにくくなったのですが、その前までは役員として会社に出勤もしていたので、バリバリに働いていたんです。

銀行で営業をしていたので、もともとは人と接するのが大好き。不安がっていた義父でしたが、島に来ていろんなサークルに参加し始めたんです。そうしたら、皆さんから声をかけてくれるようになって。

埼玉にいた時よりもっと活動的になって、顔を出すサークルが次々と増えました。合唱団、ウクレレ・・。ハーモニカサークルは自分で作っちゃったようです。今では、毎日どこかに出かけていますよ(笑)

みんなが気にかけてくれるこの環境のおかげで、義父は毎日を謳歌していると思います。来てよかったなぁと一番思っているのは、お義父さんではないでしょうか?!

娘

子どもさんも慣れるまで心配でしたか?

義父と子どもたちのことが一番心配でしたが、あっという間に解消しました。

島に来た時は、上の子は小学校2年生、下の子は年少でした。島の子どもたちは親切で、昔から下の子を可愛がってくれるんです。

温かく迎えてくれましたね。来て数日で、近所の子どもたちとは友達になっていましたし。

 

島外よりも島の方が、家族同士のつきあいは多いですよね。

向こうでも、親しい家族はありましたが、2,3軒程度でした。島はほぼみんな家族ぐるみですよね。子ども同士から仲良くなって、家族ごとくっついていくみたいな。

あとはお酒つながりもありますね。私たち夫婦もお酒大好きですし(笑)

 

家族での引越で、送る荷物の量はどうやって工夫されましたか?

コンテナ便を使ったり、箱詰め荷物を宅急便で送りましたが、できるだけコンパクトになるようにしましたよ。

 

女性目線で、これは持ってこようと決めていたものは何でしょうか?

家電製品ですね。すぐに生活できるようにしたかったんです。また、主人が1か月前に来ていたので、先に家電製品を送ることができて、生活体制を整えてくれていたんです。

陸地の引越とはやはり違いますよね。車も別に送らないといけなかったし。

 

人生で予想しなかったことですよね。

全く。そっちを選ぶ?って思いましたよね。

すごい決断したなと思いますが、来るべくして来たんだとも思っています。子どもたちもいい経験をさせてもらっています。

 

今の仕事に就くことになったきっかけを伺えますか?

島にきて約4ヶ月後の2011年4月にこの会社に入社しました。最初は工事部に配属され、都道沿いの緑地整備の提案をしたり、現場の工事監督をしたりしました。都や村に提出するための資料作成や現場管理などです。

まったくイチからのチャレンジでしたが、島の為にと考えながら仕事できたのは楽しかったです。

オフィス

そして不動産事業部も新設になったんですね。

会社としては、2014年に宅建業を開始しましたが、こちらも新設だったので、前職で不動産業の経験があるとはいえ、大変でした。

 

賃貸・売買物件などはどのように探していくのでしょう?

紹介で話をいただくことが多いです。物件自体は少ないかもしれませんが、情報を公開すると割と早めに決まってしまいますね。

 

ネットで物件情報が出ているのは便利ですね。

そうですね。仕事と住む場所の2点がクリアできるかどうかは島外からの移住を考える人にとってもとても大事ですからね。

物件案内

島には不動産屋さんがないということは、他の島でも聞いたことがあります。

弊社が開業するまでは島には不動産屋がなかったため、大家さんが、仲介の会社がいないために、大家さんと借りる人が直接やりとりをする中で、お互い言いにくいこともあり、少しずつわだかまりが溜まっていって、借りた人も出て行ってしまい、その後大家さんも貸したくないと言われるようになったりしてしまう例はよく聞きました。

その間に入って、お互いのために、双方の要望を聞くという立場が必要だと思いました。

都心のように、物件の24時間完全管理というのはできないですが、せめて、今まで言いづらかった部分が言えるつなぎ役になりたいんです。

また例えば、移住してくる方の中で、どんな物件でもいい、最低限でいいと言う方がよくいます。都市部だったらあり得ないですよね。島に移住する、という時点で島の事情を知ってる人が多く、家賃が上がるくらいなら修繕は要らないと考える方もいます。

でも、島の人はその善意から、修繕しないと貸せないと考える。少しでもきれいな状態で住んでもらいたいと思うわけですが、修繕費と家賃とのバランスについても、第三者が検討することで解決できることも多いと思うんです。

また、家は空けておくより使っててもらった方がいいので、そういうためにも、契約先との調整が必要かと思っています。

現在、自分たちで修繕できる物件や、新築賃貸物件など少しずつ増やせないかと検討中です。

 

島に戻られて、一番最初に思ったことは何でしょうか?

一番思ったのは、空気が全然違うということです。大学から埼玉に10数年いて戻ってきて、島は純粋に空気がきれいだなあと思うんです。やっぱり都市部にいると、気のせいかもしれませんが、少し息苦しい感じがします。だから、朝港に着くと、ああ帰ってきてよかった・・と思います。(笑)

 

島を一度出られたことで見えたことはありますか?

島では、何でも自分次第でできるということですね。やらなくてもいいかもしれないけれど、やろうと思えば何でもできる。仕事もプライベートも。

少年野球

島の暮らしって忙しいですよね。

長男が小学校2年生まで埼玉にいたわけですが、土日は少年野球で忙しかったんですね。島では少しのんびりするかなと思いきや、子どもの習い事はたくさん、地域のこともやって、一人何役もやるので、本当に忙しいです。

平日の一日

今は何役くらいでしょう?(笑)

数えられないですね。(笑)逆に何役もやっているから、周りも助けてくれるんだと思います。みんなそれぞれ頑張ってるので、私も頑張ろうと思えるというか。

ゆっくりのんびりな島ぐらしを想像しがちですが、実際は結構忙しいですよね。向こうで何をもって忙しいって言ってたんだろう?と思いました。(笑)

島だから子どもにやらせてあげられることが限られるというのは嫌で、できるものはやらせたいんですよね。だから忙しくなっているかもしれませんが。長男は、中学で野球部に属しながら、テニス、卓球もやっています。長女はテニス、剣道、野球もやっています。島ならではの木遣太鼓も教えて頂いています。そんなわけで、子どもたちの習い事の休みは一週間のうち火曜のみです。(笑)

息子さんテニス

娘さん剣道

お互いに密着しながら生きていくんですね。

煩わしいと思う人もいるかもしれないですが、つながりを持っているからこそ、何かがあった時も、相手から声をかけてくれる。本当にありがたいですよね。

ある日の休日

堀井さんテニス

島は子育てに向いていますよね。

私にとって、島で生まれ育ったことでマイナスになったことはひとつもなかったです。就職の時も、島ぐらしの経験はプラスになったし。それを子どもたちにも経験してほしいです。社会に出た時に、自分が三宅島出身だということから、周りの人に三宅島に関心をもってもらえるようになってくれたらいいなあと思いますね。子育てといえばもうひとつ。向こうにいた時は、子供が起きる前に出勤、子供が寝てから帰宅という主人でしたが、島にきて子供との時間がたくさん持てたこともすごくいいことだと思います。子供より、主人のほうが嬉しいんだと思いますが(笑)

 

島の教育でいいと思ったことはありますか?

学習面でいうと、競争意識というのは生まれにくいかもしれません。確かに塾などに行けないということはあるかもしれませんが、最後は自分次第だとも思っています。また、学校でも補習もしてくださいますし。それよりは、島で貴重な経験ができる方がいいのかなと。何より子どもたちに対する村の援助も豊かですね。向こうでこれだけの習い事をしたら、大変なお金がかかると思いますが、ほとんどかかっていないように思います。内地からいらっしゃる警察や支庁関係のママ友さんは、たいていいつもびっくりされますね(笑)また、島には多種多様な経験の持ち主でかつ世話好きな方が多くて、たいていのことは教えてくれる気がします。

でもいつか子どもから島を出ると言われたら、その時は応援します。たとえ戻らなくても、自分が三宅島出身だと言ってくれたら、それが島のためになると思っています。

 

島で働くということについて伺えますか?

島ならではの仕事というのは、実はごく一部で、ほとんどの仕事は都市部と同じではないかと思います。仕事自体は、島でも向こうでも同じなんですよね。人間関係だって、どこにいても少なからずあるように、大差はないと思います。

だから、仕事以外でのつながり、自分の楽しみがないと島に来た意味がないかなと思うんです。「働きながら島自体を楽しめる」そういう暮らしをしたいですよね。通勤時間もないし、仕事以外の時間を作れるので、何かやろう、つながりを求めようとしたらすぐそこにある。つながりがあれば、長くいられると思います。昔に比べたら、島の人ともつながりやすくなっている。そこでつながっておくと、自分自身に返ってくることが多いんですよね。

最終的には自分次第ですよね。島だといろんなことがぎゅっと凝縮していて、都市部だと薄まっている。基本は同じかと思います。

 

今後、三宅島で暮らしたい方にメッセージをお願いします。

仕事もプライベートもひっくるめてやりがいがあります。いろんなことを頼まれるし、自分がやらないとダメだなと思うことがよくあります。向こうだと自分がいなくてもいいやと思うことが多いけれど。島にいる意味、生きている意味のようなものを感じると思います。

 

堀井さんにとって、三宅島とは何でしょうか?

ふるさとであり、これからも変わっていける、変えていける、可能性を秘めている島です。

いろんな方の意見を聞いたりすると、それぞれが島に熱い想いを持っている。この力を結集させたらすごいパワーになるんだろうと思っています。

家族写真

(2017年5月1日堀井邸にてインタビュー。聞き手:木村美砂)

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