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三宅Style 第2回 浅沼 浩希氏(株式会社正大取締役)インタビュー

更新情報

「島を行ったり来たりしたからこそ、分かったことがあります。」

島で生まれ育った浩希さんは、どんなお子さんでしたか?

あ、子ども時代からですか。日経新聞「私の履歴書」みたいですね。(笑)きょうだいは、3歳違いの兄と5歳年下の妹の3人です。


活発なお子さんでしたか?

いや、そんなに活発じゃなかったです。島では柔剣道をやっている子も多かったですが、両親も店の仕事があったりして、おばあさんと一緒にいることが多くて、育ててもらいました。小学校一年生くらいから店の手伝いはやっていました。


浅沼 浩希氏の写真

島を出たのはいつですか?

三宅高校に通って、その後大学進学のために島を出ました。


大学で写真を専攻することになったきっかけは何だったのでしょうか?

高校の時に写真部に入っていました。やっぱり写真が好きだったんだと思います。何かのコンクールで入選しまして。


その写真を見ることはできますか?

どこかにいっちゃったなあ・・。撮影旅行があって浅草寺に行って人物写真を撮りました。やっていて楽しいとは思ったけど、そこまで深くはやっていませんでした。もともと大学受験は経営や経済方面を目指していて、試しに写真でもと思って受けたら、そこしか受からなかったんです。(笑)それも人生だなと思って。仕方がない、そう思いました。記念受験的な方が受かってしまいました。でも学生時代は楽しかったですよ。もともと経済方面を狙っていたから、そんなに芸術畑ではなくて、芸術志向でない普通の学生もいたのでよかったです。4年間写真は学びましたが、自分は職人気質ではないなと、どこかで気づいていました。でもその経験はマイナスにはならないとは思っていました。自分たちは、銀塩写真の最後の世代だったんです。その1,2年後から写真もデジタル化しました。


運営していた商店の写真

いつ島に戻られたのでしょうか?

大学在学中は、夏休みのような休暇以外はまったく戻っていないです。大学4年生の時に噴火(2000年)が起きました。全島避難になりましたが、兄は先に卒業していて家を継ぐということで島に戻ってきていました。その後、23区内でスーパーを出店するのですが、徐々に島の復興が進んできて、作業員向けの商店を作ってほしいという要望があり、当時スタジオでカメラマンのアシスタントをしていたのですが、確実に復興の方がやりがいあると思って、それで実家に戻ってきました。それが2002年くらいの話ですね。

現在の勤労福祉会館跡地が作業員の宿泊施設になっていて、臨時店舗を出すために早めに島に戻ってきていました。島内の店舗としては、最初に戻ってきて再開したと思います。その後1,2年して他の地区にも臨時店舗ができるようになりました。作業員の方々がものを買えなかったため、宿泊施設に作業員の方々と一緒に寝泊まりしながら、商店を運営していました。船は最初、1週間に1便か2便来航していて、それで商品の調達をしました。それまでは弁当の配食と自動販売機しかなかったのが、店舗で食料が買えるようになって、生活が次第に戻ってきました。

当時、自分も作業員の方々も若かったし、大変ではあったけれど、辛いということはありませんでした。ひとつひとつクリアして立ち上がっていくということを実際に経験しました。建設関係に携わる島民は、自分よりももっと先に島に戻ってきて、復興作業をしましたが、とりわけ、脱硫施設を最初に構築しなくてはならなかったので、神津島から通いながら建設作業をしていました。

火山性ガスが多ければ、退避して作業ができないこともありました。それを繰り返しながら脱硫施設を作り、人の居住が可能になっていきました。村役場、支庁も先に戻ってきましたね。いずれも、神津島から通いました。2005年の帰島決定も東京都側で発表されたので、島内ではあまり実感はなかったですが、臨時施設が徐々に閉設されたりして「日常」が戻ってくる感じがしました。


奥様とはどのように知り合い、島に来ることになったのでしょうか?

妻とは都内で知り合いました。2005年の帰島直前で子どももできて、27歳で結婚しましたが、婚姻届は、当時都庁の中にあった三宅村の臨時庁舎で提出しました。妻は、結婚するまで島に来たことはなく、その後島に行くことについて特に驚きもしませんでした。当時、帰島した子どもたちも少なかったですが、産まれたばかりの子どもと妻と一緒にいることが普通だと思い「居るべき場所に居る」ということを優先しました。復興をものすごく意識して戻ってきたわけではなかったです。


商品管理をしている様子

島が復活していく様子を日々体感されていたのですね。

噴火を経験した人は皆、噴火とリンクした人生が進んでいったと思います。噴火で5年も地元を離れるというのはそうないことだと思います。自分にとっても人生のターニングポイントになっていることは間違いないですね。もし噴火がなかったら、島には戻らず、そのまま写真業界にいて営業などをやっていたかもしれません。アシスタントをしながらでも、会社の収支とかコスト計算とかつい気になっちゃって。考えなくてもそこは見えてしまうんですが、肝心の写真の腕が上がらなくて。(笑)でもカメラマンのような職人気質を経営、マネージメントが補完すべきで、一度、カメラマンのマネージメントをする会社を運営しようと考えたことはありました。


正大ストアの外観写真

正大ストアについて伺えますでしょうか。

父の代を含め、正大ストアは三宅島で約60年経営しています。避難した時に、父と兄が渋谷区笹塚でスーパーを始め、その後島も復興してきて、あわせて笹塚で飲食業(ばんやしおさい)も経営するようになりました。島の魚はもちろん、全国の美味しい魚を集めた店にしています。

事務機能は兄のところにあるので、営業と事務は笹塚の方でやっています。復興の時は、島内で食堂2店舗と商店1店舗を運営していました。兄は島で復興に携わりながら、笹塚の店も切り盛りしていましたから、あまりに忙しく、これは手伝わないといけないなと思いました。同級生にも手伝ってもらったのですが、みんな帰ってきたいと思っていたことを知りました。


ばんやしおさい店内の様子

正大ストアの品揃えで工夫されていることはありますか?

仕入先の工夫をして、少量で広く仕入れるようになり、物流の安定も図れるようになりました。お惣菜に関しては、島内も高齢化してきて、揚げものなど自分でなかなか作れないもののニーズに応えたいと思っています。建設関係で来島している方々には、昼にすぐ食べられる弁当を販売したり、単身で赴任される方、学校の先生など、夜遅くまで働いている人も多いので、そういった方々に向けても販売しています。


お店が20時まで開いていて、お惣菜めがけて駆け込む方も多いですよね。(笑)

復興の時に食堂を運営して、作業員の方々にボリュームのある食事を提供していたところから、今のお惣菜販売の流れがあるんですが、最近は高齢者に向けた惣菜づくりも目指すようになってきました。独居老人や買い物難民など、島の高齢化に対応して、お惣菜の販売や、商品の配達も始めていますが、スーパーも公共的存在感が求められてくると思っています。店を続けている理由もそこにあります。他のスタッフが忙しいこともあり、自分自身で配達に行きますが、そこで高齢者の方々の話相手になっていたりもします。時には頼まれた買い物もしますし。(笑)


お店のキャッチフレーズである「島の冷蔵庫でありたい」に込められたメッセージを伺えますか?

皆さんに便利に使っていただきたいという想いもあるし、何より噴火を経験して、備蓄できる「蔵」のような役割が本当に必要だなと痛感したんです。東日本大震災の時もそうだったけれど、やはり物流が止まるのが本当に怖いことです。そこで、利便性のよさと、有事の際のストックヤードとして店を使って下さいという意味を込めていると思います。


現在、正社員を募集中ですね。どのような業務を行うのでしょうか。

日々の運営業務はもちろんですが、経営についても一緒に考えていってほしいです。一戸建ての社員住宅も完備しており、いい環境で働いてもらえたらと考えています。


レモン栽培の様子

最近、挑戦されている新規事業について伺えますか?

レモンを育てています。(笑)もうひとつの新しい仕事です。島内の荒廃した土地をレモン畑にする計画です。イタリアのようなレモン畑が広がる風景っていいでしょ?1本で100~200個収穫できるのですが、レモン栽培の師匠に教えてもらいながら、現在は40本ほど植えています。10年越しで収穫の最盛期を迎えるそうで、じっくりやっていこうかなと思っています。今は、正大ストアで販売したり、笹塚の飲食店「ばんやしおさい」で提供しています。


次世代の島を担う皆さんで結成された「3PLAY」について伺えますか?

もともとは島の人口を増やすための施策をやろうというところから始まった組織です。島コンのような婚活から始まって、移住・定住促進の流れになってきたと思います。2回目の島コンツアーには暮らしたいコースを含めて実施し、手ごたえがある程度感じられました。行政の諮問機関のような位置でありつつ、民間の力を集めて、ソフトの開発をしていこうということで、まずはマーケット調査も兼ねて、島暮らし体験事業を村に提案したんですね。実際、島の様々なところで人材不足が起きていて、もう少しいろいろな人が働いていたら、盛り上がるというか、違う考え方も出てくるのではないか。まずは人材が島に定着しないと、その先は見えてこないんじゃないかと。


どのくらい人口が増えたらいいと思われますか?

よほどの外的要因がない限り、島の人口が爆発的に増えるということはないわけですよね。「維持」「メンテナンス」をするだけの最低限の人口がまずは必要です。それすらも放置しておけば減ってしまう可能性があり、何とか島を気に入ってくれて、一緒に維持していってくれたらいいなあと思うのです。

島の土地には限りもあるので、それを上回る人口になった時には、生計を立てていくのが難しくなる可能性もあります。また島の資源も共有していかなくてはならないし、他の島との関係性もあるし、その意味で、爆発的に島の人口を増やすことは現実的ではないと思います。

現在、島の人口は約2,600人で、その数自体が少ないかというと、そうとも言えないかもしれません。ただ、総人口における高齢者の比率が圧倒的に高く、現役世代や、労働力となる人口が減っている。高齢化が進むと、少数でいろいろなことをやらなくてはならず、今までできていたことに手が回らなくなってくるんです。例えば、この神着(かみつき)地区には毎年1回はお祭りがありますが、運営が苦しくなってくるのが目に見えている。

祭りは好きなのに、物理的にできなくなる状態になりつつあります。維持と言った時に「文化の維持」ということもありますよね。マンパワーが不足してくるのです。例えば、30年後を考えた時に、高齢化率の高い島の人口分布は激変していると思いますが、生活は実はそんなには変わらないのかもしれないと思っています。むしろ、それに見合うだけの仕事や暮らしとなったら、やりやすくなるのかもしれません。

ただ、今まで維持できたことができなくなるのは目に見えている。存続させたいものがあるなら、やはり人口は維持しなくてはならない。島の各地区には文化もありますが、人口のバランスが崩れてしまえば、こうした文化の伝承も途絶えることになるんですよね。


実になっているレモンの写真

日本中のどこでも抱える課題ですね。

人口爆発を起こして大喜びしたいわけではないんです。維持をする為の必要最低限の人材を確保して、バランスを取りたいということなんですよね。世代ごとのバランスが続いていくという安心感と、今あるものがなくなってしまうという喪失感。もしなくなったとしても、生活は続いていくかもしれませんが、文化はなくなってしまいますから。何でも切り捨ててしまうようになったら、無機質で乾いた生活になってしまいますよね。島では祭りは生活と密着していますが、その担い手が減っているのは確かで、それは外から見ると気づかないことかもしれません。

祭りを見るだけなら楽しそうと思うかもしれませんが、維持するための労力、マンパワーは、実は尋常ではないんです。楽しい祭りを維持するために、どのくらいのマンパワーが必要なのか。神着地区では、祭りの時に外から人を呼んでくることもあります。最初は自分たちの地区だけでとやっていましたが、次第に外の人と共有できるようになってきました。島外とどうつながりながらこうした維持を続けるか、新しい人を呼ぶアイデアと伝統の維持は難しいことではありますが。

どこまでを解放して、どこまでを絞らなくてはいけないか。みんな危機感を抱えているのは間違いありません。おじいさんに無理やり神輿を担いでと言ったって、そこは難しいですよね。大祭の時に神輿を担いでいたのが、やがて車で神輿を運ぶようになり、そのうち飾るだけになっちゃったらまずいでしょ。今見ている景色が変わってきてしまう。都心だと「個」の存在の希薄化があると思うけれど、島では「個」が重視され、責任を持つことが多い。本来は都心だってどこだって「個」の価値と責任はあるはずですよね。

都心では、大声を上げて「責任を負っている」と饒舌にアピールする人だけが価値があるように見えるけれど、本当は誰でも同じ価値観があって責任もある。都心だと、自分自身が迷路に迷い込んでしまいがちですね。島と都心を行き来している中で、田舎のよさは何だろうとか、都心のよさは何だろうとか、都会の所在のなさとか、居心地ってなんだろうとか、よく考えました。都心にいると、自分は本当に価値があるんだろうかと思いがちですが、地域では、存在を認めてくれて、必ず自分の価値を発揮できる。責任を負うことがたくさんあったとしても、存在を認めてくれることと責任を負うことは等しいことなので、実はとても大事なことだと思います。

都会で気づけなかったことが地域に来たら分かることは多いと思います。こちらでは「あなたを欲しています」と確実に言ってくれますから。その土地を離れづらくなるのも、実は存在を肯定してくれて、期待していてくれているということが根本にはあるように思います。もし思い残さずやりきってその土地を出るとしたら、それは「次のステージに行ってきます!」ということでよいのではないかと。でも、一度でも「個」を認めてくれる体験をしたら、例え離れたとしても敵にはならない。その人の二つめの故郷になって、いつでもまた来てくれたらいいんです。

子育て世代になればなるほど、都会に住んでいると、こんな環境でいいのかなと思うことが多いかもしれません。それなら、数年三宅島に住んでみたらいいじゃない?と伝えたいですね。海はあるし、自然はあるし。しかも自分自身の存在感をたっぷり味わえるし。


品物をチェックしている様子

浩希さんは、他の土地で暮らしたことはありますか?

ないですね。他の土地ねえ・・・思い当たらないよね。(笑)


お子さんは島にいてほしいと思いますか?

ゆくゆくは出るかもしれません。親は何とか頑張るから行ってこいって言うと思います。(笑)自分自身が島を出ようとしましたから。刺激が欲しかった。このままじゃだめだ。いつか出なきゃいけない、と思いました。そして出られるなら早い方がいいなと考えたのです。子どもたちにとっても受験はいい経験ですしね。島を突破する方法がなくて、選択肢がないと思われたら困りますからね。「ここしかない」という考えは違う。行こうと思えば、外の世界には行けるんだぞと。三宅以外の社会があることは事実だし、覚えなくちゃいけないし。そこは教育上伝えなくてはと思っています。当たり前ですが、行ってみなければ分からないことも多いですね。


島の良さをお子さんたちに敢えて教えてきたことはありますか?

そこは感じるものだから、教えたことはありません。子どもは感受性が強いから、この環境にいるだけで自然と影響を受けていますよ。「島で過ごす」というその時間の中に、自然と刷り込まれていると思います。それが当たり前のようになるんですよね。都会で育つよりも、島で暮らす方が、情操教育上は間違いなくいいと思いますよ。魚がどんなふうになっているか、野菜がどんなふうに育っているか。

東京の大学に行っても、畑に何が植えてあるか分かる人と分からない人がいるのも事実でしょう。それでもし子どものうち一人くらいが島に戻ってきてくれたらなぁと思います。外から来た人に島に住んでほしいと言いながら矛盾しているかもしれないけれど、子どもたちには経験を積んで帰ってきてほしいと思うんです。ずっといろとは思わない。自分も一度島の外に出て戻ってきたので、いろいろ考えてから戻ってきてほしいと思うんですよね。

それをまた島にフィードバックして、親にも地域にも還元してほしいんです。島で育つ時に学んだ本質は変えずに、都会でいろいろな人に出会って、世界に拡がりがあることを親としても伝えたいです。また、都会と比べて、島では家族と一緒に過ごせる時間が長いです。

親との接点が長くなり、小さい頃から地域で知らない人と話すことを経験するので、コミュニケーション能力が自然と高まります。都会でこの能力を維持しようと思うと、結構なお金がかかる。どこかに通い、何かのコミュニティに属して、意識しないと維持できない。島なら意識しなくてもそれができます。純粋に島で育って外に出て行ったとしても、小さい頃に経験したことはさほど変わらないはずです。他人の存在を近くに感じていれば、人を傷つけたりしないし、人の痛みも分かる。都会では難しい、地域が担う教育が島にはあり、それはお金に代えがたいものです。


商品管理をしている様子(別アングル)

しかも「東京都内の島」なので、都心もすぐそこですよね。

そのバランス感、距離感がほどよいので、お得だと思うんです。3~5年島に住んでみるという動きが出てきたとして、高校になったら島を出ていく子もいれば、島で過ごしたいと思う子どもたちもいて、それが支援の輪として広がっていく。終身雇用が崩れた今、自分の能力を活かして、新しい土地で、新しい仕事を見つけることが可能になってきました。

時期ごとに人生を選べる時代が、日本にも来たんです。時代と世代にあわせて自分が意図した選択肢と地域を選んで、ライフスタイルをしなやかに変えていく。その上で、個人的には、三宅島は「子育て世代」と「中高年世代」に向いているんじゃないかと思っています。

子育て世代は、大自然の中で大らかに子どもを育てながら、IT化が進んだ教育も享受できる。中高年世代は、ゆっくり稼いで、ゆっくり過ごしたい世代だと思いますが、島での暮らしはまさにそれが実現できる。移住したいと思う人は、そもそも軽やかに生きようと考えている人たちですよね。仮に数年の移住だったとしても、その人たちが地域で構築したシステムや思想は残っていくはずで、ともに構築したいと思います。


三宅島に今後住みたいと思う方々に、メッセージをお願いします。

「移住」というイメージが先行して、さらに「島暮らし」から連想される「スローライフ」といった言葉が踊り、理想もちょっと高めになるかもしれません。そして実際に暮らす時に、そのイメージとのギャップを埋めることになってしまうとちょっと残念ですね。でも、都心であれ、島であれ、仕事はどこでも同じだと思うんです。生計を立てることは当たり前のことですよね。「島暮らし」というと、そこさえもふんわりしてしまうことがありますが、島での仕事はたくさんあって、そんなにのんびりはしていません。(笑)むしろ、日々の仕事、地域の仕事、子育て、祭り、村のイベント・・と忙殺されることも多いです。その上で、島で得られる収入と、与えられる環境や教育などを全部ひっくるめると、都会よりお得じゃないかと。「人生の収支の問題」として。


さすが、コスト上からのご意見。(笑)

そんなに計画どおりの人生はないから。人生のコストパフォーマンスがいい方を選んでいくのは、悪いことじゃないでしょう。


日中の正大ストアの外観写真

浩希さんにとって三宅島とは何ですか?

第一に「生まれたところ」。普段から自然体ですが、島にいるとさらに自然体になります。本当の自分で居続けられる場所なんです。脚色がない。とりつくろわない。虚勢を張らなくていい。鎧をつける必要がない島です。言葉にすると陳腐になってしまうので、是非一度島に来ていただき、自分自身で感じてみて下さい!


(2016年12月26日正大ストアにてインタビュー。聞き手:木村美砂)

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